「1989」はまごうことなき傑作 テイラー・スウィフト
今更ですが、テイラー・スウィフトですw
なんで?と仰しゃる方もいるかもしれませんが、彼女はれっきとしたカントリーシンガー。インタビューで「カントリーが好きと言っていじめられた」と語っているのを見て、やっぱりそういう風に見られるもんか…と改めて思ってしまった次第。
彼女の「1989」はジャケットがソフィア・コッポラの映画みたいで気になっていたというか、とても好きだったのですが、かのライアン・アダムスが丸々アルバムをカバーと聞いて、これはちょっと見過ごせないと思って、ブックオフで500円だったので購入した次第ww
さて、一聴しての印象はシンディ・ローパーの傑作「ハイスクールはダンステリア」(あえて邦題で書かせていただきます)
冗談ではなく、第一印象で浮かんだのはそれです。
揺るぎないメロディ、色褪せることのないポップ性を帯びた強い楽曲を、現在進行形のアレンジでデコレートした作品というのでしょうか。
80年代らしいアレンジながら、シンディのあの傑作は楽曲が段違いに素晴らしいが故に時代の風化に耐え、今でも十分評価されている。
それに似た印象がテイラーのこの作品にはある。
楽曲が強い。ライアンがカヴァーしたのは、これだけの楽曲だったらアメリカーナで歌って良かっただろう、というクレームにも似た賛辞としか思えない。
テイラーがカントリーシンガーとしても逸材なのは間違いないのですが、このアルバムでジャンルを飛び越え、今風のポップミュージックなんて余裕で出来ますよと高らかに宣言したような作品だと思います。
それこそ、古びれてしまいそうな今風のアレンジも意図的で、それでもこれだけの楽曲だったら時代の風化に耐えられると言っているようでもあります。
まごうことない傑作。2010年代を代表する一枚でしょう。
もちろん、その作品のクオリティは相当なもので、テイラー侮りがたしと言わざる得ない強力な作品です。
これは貴重な映像になる! パンチブラザーズ「ハウ・トゥ・グロウ・ア・バンド」
ディランがエレクトリックでライブを行った時に「ユダ!(裏切り者)」とファンから非難されたのは、もはやロック史上の事件として知られています。
偉大なアーティストの大変革は、時に聴衆の激しい非難を浴びます。
その大変革は時代がゆっくりと審判を下すのが世の常。そして、大概は失敗を恐れず、変化を求めた者が正しいことが証明されるようです。
なぜなら、変化を促すには大きな信念や力が必要だからでしょう。
パンチブラザーズのドキュメンタリー「ハウ・トゥ〜」は、そう言った変革の決定的な瞬間を切り取った貴重な映像となるでしょう。
天才クリス・シーリがニッケル・クリークを解散し、その音楽的な挑戦をパンチブラザーズで果たそうとする初期の段階を見事に捉えた記録で、クリスの苦悩やメンバーの戸惑いが描かれ、最終的にパンチブラザーズがクリスの才能を燃料に見事にヤマを越えていく様が描かれています。
何より、クリスがブルーグラスという旧態然としたジャンルの壁を越えようと足掻く様が感動的です。
もしかすると、クリス・シーリは21世紀の、そしてブルーグラス界のフランク・ザッパのような存在になるのではないか?とさえ思いました。
ジャンルを超え、あらゆるジャンルを飲み込み、その底なしの懐であらゆるジャンルを「音楽」という括りに書き換え、すべてを表現してみせる稀有な存在に思えたのです。
弦楽五重奏「The Blind Leaving The Blind」組曲をライヴで披露する時の映像には、ちょっと驚きました。クリスが緊張し、揺らいでいる様が赤裸々に撮られています。
クリスにとって非常に大きな挑戦であることが観ている側にも十二分に伝わってきます。
よもやパンチブラザーズがブルーグラスというジャンルから大きく羽ばたこうとする歴史的瞬間が観れるとは思いませんでした。
そんな貴重な映像が、本作の大きな山場として序盤に出てきたので不意を突かれました。
本作のファーストシーンのクリスの激しいソロプレイを見れば、パンチブラザーズがブルーグラスというジャンルの枠に囚われていないことが、一発で分かります。
この映画は、パンチがブルーグラスを大きく逸脱し、変えていくだろう事を前提で作られており、監督の意図がはじめから歴史的転換の瞬間を撮ろうとしていることが分かります。
パンチ来日公演が「事件」だと断言してきた者としては、監督の気持ちがよくわかる。
クリス・シーリの演奏、パンチのライヴを見れば、ただごとではないことは形にはなっていなくとも、多少なりとも音楽的感受性の鋭い人であれば確信できて当然です。
そう言った意味で、パンチの来日公演とこの作品のリリースは、極東の国日本では、やはり事件だったのでしょう。
この先、時代がゆっくりとクリス率いるパンチブラザーズに審判を下すのを待つだけ。
この作品を見て私は、確実に時代はパンチブラザーズに微笑むだろうと確信を強めました。こんなにワクワクするのは久しぶりです。
事件だったよ!全員集合! パンチブラザーズ来日公演
今年のフジロックは終わっても、あの一抹の寂しさがなかったのは、パンチブラザーズの来日公演が控えていたから。
それぐらい待ち焦がれていたパンチブラザーズの来日公演。
「これは事件だ!パンチがライブハウスクラスの箱でやるなんて事件ですよ!」と狼少年のように言いまくっていたんだけど、予想通り反応は皆無でw
なんとか一緒に行ってくれる相方を見つけて行ってきました!ブルーノート東京!
噂が噂を呼んだのか、来日公演最終日はソールドアウトとなり、会場はかなりホットな状態でした。
会場に入って驚いたのはステージ上にはマイクが一本。まるで漫才でも始めるかのようなステージで、モニターもスピーカーもなんもなし。
確かにマイク一本で演奏している映像ばかり見ているけれど、まさかモニターも何もないとは思いませんでした。
大人気なく会場に駆け込み、最前ステージ右を陣取って、その登場を待ちました。
その後、様々な人のライヴレポートを読んで知ったのですが、ステージ上の音響は凄いことになっていたそうです。
一本のマイクなのに全てのパートの音は頭上のスピーカーから聞こえてくる。
これはステージにあった、たった一本のマイクが超高性能マイクだったからだそうで、マイクに焦点を合わせたピンスポットライトの円の中の音は拾うけれど、メンバーの誰かが円の外へ行くと楽器の音どころか足音も聞こえないと言う恐ろしい状況を作っていたそうです。
高性能だけに楽器の音は拾う。しかし、その距離感は殆どないが為に、それぞれメンバーがマイクからの距離を計算しながら音のバランスを調整していたから、前へ出たり後ろに退いたりしていたというw。
当然、そんなことは知らないで見ていた訳ですが、そのアンサンブルには驚かされました。
楽曲、アレンジごとにその様相をガラリと変える七変化にも驚かされるし、それぞれの演奏の繊細さと大胆さ、そしてビーチボーイズばりのコーラスワークの美しさ。
どれを取ってもパーフェクトとしか言いようがありません。
ましてや、今回の来日公演で絶対聞きたかった「Familiarity」の再現ぶりときたら、もう美しくてため息も出ない…
B・ウィルソンがやりそうな組曲のような作品を目の前で繊細に、そして忠実に再現してみせる技量、これはリアルタイムでしか味わえないエキサイティングな瞬間でした。
その後の怒涛の演奏ときたら、最早ブルーグラスとかオルタナとかどうでも良し。
パンチブラザーズという超絶技巧バンドが、その現在進行形のアグレッシヴな作品群をブルーグラスという歴史あるジャンルのルールを踏まえつつ自由奔放に演奏するという一大エンターテイメントショーだったのです。興奮しないではいられません!
目の前で天才クリス・シーリーとその仲間達が見せてくれたプレイは、息を飲むジャンルやスタイルなどを軽く飛び越えた「新しい何か」でした。
ジャンルを破壊し、創造する者。ピアソラは、かつてそう言われました。
ブルーグラスというジャンルでそう呼ばれるに違いない男、それがクリス・シーリー。
そして、その革命を遂行するべく集められた凄腕集団こそがパンチブラザーズ。
その熱と腕前を満喫出来たのが、今回の来日公演で、それがライブハウス規模のスペースで観れたことを感謝せずにはいられません。
やっぱりパンチブラザーズの来日公演は事件でした!
fujirock 2016 総括その3 歌モンスター復活 UA
しょっぱなから「情熱」!!!!!!!
不意をついて、UAの「やったるで!」的な気合の入った選曲にのけぞった。
ここ数年のUAは、ちょっと学究的というか難しい方に針が振れ過ぎた印象があり、悪くはないのは当然だけど、ちょっと物足りないものを感じていた。
今回はリトルクリーチャーズのメンバーや山本達久をバックにしているのもあり、ある程度は期待していたけど、ここまで気合が入っているとは思わなかった。
UAのライヴを見たのは、ちょうど「情熱」がヒットした直後、事務所主催のライヴでフィッシュマンズを見たのもそのライブだった。
持ち歌が少なかったこともあってジェファーソンエアプレーンのカヴァーなども交えていて、その歌唱力、声の素晴らしさに圧倒されたが、その時のライヴに近い、歌手UAの凄みを感じるライヴだった。
往年の名曲から新曲、そしてカヴァーは「モンスター」w
正に女性ボーカルのモンスターだったUAの復活を宣言するようなナンバーだった。
気合入りまくりのUAは、溢れ出る衝動を早く吐き出したいのか、落ち着きなくソワソワしながら次々と歌を歌いまくった。
久々にUAの底力を見せつけられたようなステージ。
ラストはしみじみと「ミルクティー」
やっぱりUAは類まれなる歌い手であることを実感させられた圧巻のステージだった。
fujirock 2016 総括その2 彼女の涙は何の涙か? James Blake
フジロック初出演の時のジェイムス・ブレイクを見た人で、どのくらいの人がジェイムス・ブレイクに期待していただろう?
センセーショナルと言って良いフジ初出演のステージを上回るどころか、多くの人が失望覚悟でグリーンに集まったようにさえ思います。
かくいう私は正しくそうで、前回のジェイムス・ブレイクに感動し、新作に意気込んで臨んで「なんじゃこりゃ?」という激しい失望を味わっただけに、もし別のステージで
お気に入りのアーティストが出演していたら迷わず、そちらに行っていたでしょう。
静かに始まったステージは、前回と同様の構成、ジェイムスの個性的なボーカル、それにダブ処理された
低音がズ〜ンと響く、デジャヴな光景だったのです。
「ああ、同じか…」
そう思った人も多かったのではないでしょうか?
ところが曲が進むにつれて、ジワジワと染みてくるのです。
しかも前回よりも大きなグリーンステージにも関わらず、全く薄まっていないジェイムスの音楽世界。前回よりも大会場だけにサウンド面での劣化も感じられるにも関わらず、その感動が全く薄まっていないのが不思議なほど、そのステージは感動的なのに驚きました。
内省的な、どこか冷ややかで暗めな音楽にも関わらず、ジェイムス・ブレイクのサウンドは大会場にハマる。
これは、個人的にはとても不思議な光景でした。
周囲の観衆の反応もジワジワとよくなり、ジェイムスのボーカルやダブ処理された反応にヴィヴィッドに反応していく様は壮観でもありました。
ふと横を見ると、若いカップルの女性が、ライヴのクライマックス「The Wilhelm Scream」の最中、ライティングの演出も手伝って、静かに涙を落とした姿は美しかったw
まるでステージとリンクするかの様に、その神々しい光景にしばし見とれてしまった。
そんなマジックがジェイムス・ブレイクのステージには確かにありました。
これだけシンプルな、少々ダークなサウンドが大会場で映えるのは、本当に不思議です。
しかし、十分トリ前の役割を堂々と勤め上げた貫禄のステージだったのは確かです。
fujirock 2016 総括その1 カマシがカマシてくれた!
終わってしまいました、フジロック。
この時期はやっぱり「誰がベストアクト?」でしょう。
今年のフジロックに関して言えば、即答です。
カマシ・ワシントン!
カマシがカマシてくれた!この一言に尽きるんです。個人的には。
3日目、雨がパラつき、怪しい雲行きの中で、ポンチョをテントに忘れてオロオロしていたのですが、これでテントサイトまで行って帰ってきたら、疲れ果てた上にカマシに間に合わないと考えて、ヘヴンの最前に腰を下ろし、降られた時は、なるようになれだ!と開き直ったのですが、これが大正解!
もしカマシが良くなかったら、グリーンに戻ってレッチリを見ようと思っていたのですが、リハーサルの音を聞いて「これは間違いないぞ!」と、テンションが上がるリハでした。
ドロドロのグルーヴの効いたキーボード、迫力のあるツインドラム。パリパリのトランペット。
どれを取っても好みの音で、Pファンクを彷彿させる泥臭い感じがたまりません。
始まって3曲くらいで昇天してました。
パワフルなベースプレイとツインドラムの掛け合いは堪らないし、割れる一歩手前の音で吹きまくるトランペット、若いピアニストも渋目のプレイもツボ。
それにカマシのサックスもパワフルでたまりませんでした。
何よりバンドの結束というか、カマシを中心にしたちょっと宗教がかっていると言っても良い結束力が、サン・ラやPファンクを彷彿とさせます。
曲もどこか大仰で、ドラマチックな展開で聴かせます。壮大なスケールを孕んだ楽曲が多く、スペーシーとかスピリチャルという言葉が頭に浮かびます。
8人編成で作り出せるマックスのスケールを飛び越えて、次々と繰り出されるグルーヴで会場はドンドンテンションマックスに。
曲も緩急があり、勢いで押しているとはいえ、聴かせるし、魅せる。
旬のアーティストという言葉がぴったりくる素晴らしいパフォーマンスでした。
まあ次作がカマシの真価が問われる作品になると思いますが、少なくとも現時点でカマシが最高のプレイをしてくれたのは間違いないでしょう。
今年のベスト・アクトはカマシ・ワシントンで決まりでしょうw
誰もが誤解したり、誤解されたり ポール・サイモン
ポール・サイモン?フォーク歌手でしょ。
サウンド・オブ・サイレンスだったり明日に架ける橋だったり、ああ、スカボローフェアなんかもそうだよねw
ポール・サイモンのイメージはあらかたこんな感じではないでしょうか?
せいぜいソロを聴いていても、スティル・クレイジー〜はいいよね。とか、母と子の絆もいいよね。
なんて声がせいぜいでしょう。
いや、こんな偉そうなことを書いていたって、ポール・サイモンのイメージは、数年前まで自分もそうそう変わらなかった。
しかし、違和感を感じ続けていたのだ。
「コンドルは飛んでいく」が「明日に架ける橋」の中で浮いているような気がしてならなかったし、改めて聴いてもやっぱり変だったり。
時折ずっと鼻歌で時折歌い続けるくらい好きな「Adios Hermanos」はカリプソのようなメロディで、それをゴスペルと混ぜたみたいな曲なのにサイモンらしい楽曲に仕上がっている。この曲って凄いんじゃないか?凄いっていうか、P・サイモンって何者なんだよ?と言う疑問がムクムクと湧いてきたのだ。
とても素敵な曲で、とても奇妙な歌にしか思えない。
これが「明日に架ける橋」や「サウンド・オブ・サイレンス」を書いたシンガーの曲だとすぐに分かる人がいるだろうか?
ひょっとしてP・サイモンを舐めていたんじゃないだろうか?
そんな折、タイミングよくサラ・ジャローズがサイモンのカヴァーを披露していて、「とても重要な影響を受けたSSW」と言っていて、益々サイモンについて再評価をすべきタイミングなんじゃないか?と思うようになってきたのだ。
大体、オルタナカントリーへの興味の糸口の一つはクリント・イーストウッドの「スペースカウボーイ」でウィリー・ネルソンが「スティル・クレイジー〜」を歌っていて、ブラッド・メルドーがピアノでカヴァーしていて、それに一発でヤラれたと言うのもきっかけの一つで、そこからサラにたどり着いたら、またP・サイモンが顔を出す。
これは偶然だろうか?いや、決して偶然ではない。
アメリカンミュージックという意味不明なくらい広い音楽ジャンルの中で、P・サイモンが果たした役割がとても大きいということを意味していると考えるのが自然だ。
P・サイモンを語る時、サイモン&ガーファンクルを避けて通る訳にはいかない。
そして、その存在と余りにも有名過ぎる代表曲の数々が、ポールのソロを評価しにくいものにしている。
サイモンがソロで作り続けていたのは、様々な音楽スタイルを貪欲に吸収し、それを咀嚼し、自分なりの音楽にする。この極めて難しい作業を淡々とやってきたのだ。
「Adios Hermanos」は、その一端に過ぎなかった。
有名白人ミュージシャンで初めてレゲエを扱ったアーティストであるサイモン。ジャズもニューオリンズのセカンドラインも、フォークもラテンもアフリカも、そして最近じゃアルゼンチンのリズムさえも取り込んで我が物にしているサイモン。
しかも新作にはニコ・ミューリーも参加しているというじゃないか!
そのキャリアを振り返ると、サイモンの「音楽による世界一周」の様相を呈した作品郡にはため息しか出ない。そして、その偉大なる業績は、サイモン以上に大物と評される人、ディランやマッカートニー、ストーンズなどに劣るどころか、上回っているんじゃないかとさえ思う。
もちろん、P・サイモンといえばNYといったイメージもあり、その洗練されたセンスやソングライティング、どこかジャズのフレイバーを感じる楽曲も多く、そこらもP・サイモンのアグレッシヴな姿勢を見えにくくしている気がする。
アメリカの音楽とはなんだろう?と考えた時、様々な移民が持ち寄った音楽が融合、拡散を繰り返し、多種多様な音楽を取り込んでいったアメーバのような音楽と考えるならば、まさしくP・サイモンの歌はアメリカそのものなんじゃないだろうか?
そして、そのアメリカの音楽を作ったのがユダヤ系のP・サイモンだというのも、まさにアメリカらしいエピソードにも思えるし、合点が行ってしまうのである。